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All campus partyというのが定期的にあった。前述のFraternityが主催するキャンパス全員向けのパーテイーである。Kegにはいったビールを用意する。Kegには60リッターのビールが入る。重さにして70KG。これを9個用意する。他にイベントなどないので大勢が来る。11時ごろにはビールがなくなると下級生が追加調達しに行く。(この時はちゃんと金を払った)夕方にはとても持てなかったのに、なぜか夜中になると使命感が働いて、このKegを持ち上げることができたのは未だに不思議。
地下にビールがそなえつけられているのだが、すごい人混みである。ここで会ったことのない子が階段で床をきょろきょろしていた。どうしたのか尋ねると、コンタクトレンズを落としたらしい。それは大変。ビールを取りに向かう酔っ払いを引き留めて一緒に探した。見つからなかった。この子がその後結婚する相手となった。これが出会いだったのだが、この話を聞いた叔父が一言。それは一目惚れだ。一つの目でしか見えなかったわけだ。うまい表現だと感心した。英語でもLove at first sightという表現があるがLove without a contact lenseということだろう。
地下にビールがそなえつけられているのだが、すごい人混みである。ここで会ったことのない子が階段で床をきょろきょろしていた。どうしたのか尋ねると、コンタクトレンズを落としたらしい。それは大変。ビールを取りに向かう酔っ払いを引き留めて一緒に探した。見つからなかった。この子がその後結婚する相手となった。これが出会いだったのだが、この話を聞いた叔父が一言。それは一目惚れだ。一つの目でしか見えなかったわけだ。うまい表現だと感心した。英語でもLove at first sightという表現があるがLove without a contact lenseということだろう。
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イリノイ州の冬は厳しい。1月、2月は最高気温でも氷点下であることが普通。この長い冬が終わって雪が溶けて、久しぶりに地面の上を歩いた時の感慨を今でも思い出す。雪国を舞台にした小説を初めて理解した気分になった。東京人には実感できないなあとしみじみ感じた。
春学期になって野球部のシーズンが始まると言う。先輩からおまえもトライアウトしてみたらどうかと言われた。Sadaharu Ohが有名だった。野球は小学校以来やっていないが、サッカーでもできたから何とかなるかもしれないと思った。トライアウトで感じたことは、軟式と硬式の違い。送球の早さ。全然打てない。数日後監督から、Cutの通告を受けた。おまえがいると捕球しそこなったボールでケガ人がでそうだから、と言われた。ちょうとピアノの練習もしていて、野球ではれた手をみて、先生がやめたほうがいい、と忠告してくれた。
春学期になって野球部のシーズンが始まると言う。先輩からおまえもトライアウトしてみたらどうかと言われた。Sadaharu Ohが有名だった。野球は小学校以来やっていないが、サッカーでもできたから何とかなるかもしれないと思った。トライアウトで感じたことは、軟式と硬式の違い。送球の早さ。全然打てない。数日後監督から、Cutの通告を受けた。おまえがいると捕球しそこなったボールでケガ人がでそうだから、と言われた。ちょうとピアノの練習もしていて、野球ではれた手をみて、先生がやめたほうがいい、と忠告してくれた。
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夏のバイト代で貯金が出来た。大学のSecurityでLockoutするたびにお世話になるCarlに相談して車を買うことにした。一番安い車がシボレーのImpala。800ドル。支払いの時免許証をまだ取ってないことに気が付いた。その日に取りにいった。筆記試験が20問。そして実地試験となった。担当者に車はどこにあるんだと聞かれた。免許がないから取りに来たのに、実地するから車持ってこい。鶏か卵か。車を取りにいって、それで実地試験。右、左、バック、駐車。はい合格。5ドルだった。それにしてもぼろ車だった。アクセルを踏むと、ガソリンが減っていくのがメーターでわかる。時速50マイルぐらいになると、車体がふるえる。それでも友人からは車貸してくれと頼まれるようになった。ケンタッキーまで遠出したこともある。オイル交換が必要だなんて知らなかった。卒業と同時に処分した。
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1年が終わった夏休みは近郊の農場でアルバイトした。理由はいまだにわからないが、機械で借り残されたとうもころこしの実を手で引き抜くという単純作業。50人ぐらいの高校生を大学生チームが管理する。朝はつゆでびしょぬれになり、それが乾くと暑い、蚊にもさされながら一日中歩く。当然高校生はさぼる。それを管理する。指示に従わなければ首にする。いろんな性格の高校生がいて、喧嘩早い、いたずら好き、体力がついていけない、ボスのランチを持参してごまするタイプ。まったく社会の縮図である。ひと夏で10人ぐらいくびにした記憶がある。英語に自信がついた夏だった。
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前述のFraternityではハロウィーンになると町の子供たちを呼んでイベントをしていた。当然Pumpkinを用意する。ところが予算が足りないので確保できなくなった。至急20個確保しないといけない。子供たちのためである、何とかしなくては。夜中こっそり確保に向かった。満月の明るい夜だった。子供たちの笑顔をみて何かいいことをした気になった。その後警察から名指しで電話があった。出頭せよ、と。みんな真っ青になった。が、その電話は上級生からのものであった。大学周辺の商売は大変だったと思う。
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前に紹介したピザ屋は寮まで出前サービスがある。夜食として食べたいが金が足りない時にどうしたか。となりの寮の建物のTomからと電話で注文する。30分ぐらいすると届く。建物にはいってTomを探すが実在しない。しょぼしょぼ持ち帰る配達人に声をかける。What happened? Someone ordered this by mistake. I am sorry to hear that. We can buy it from you for half the price, if you want. OK. 4年間で何度かはこの手が通用した。今では考えられない。
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当時Deer Hunterという映画が流行っていた。そこでRussian Rouletteのシーンがある。ある日友達4人でビール飲んでいたところ、一人が1本の缶ビールをふりだした。そして分からないように並べて一人ずつ、耳元で缶をカチッとあけようと言う。部屋を薄暗くして、順番に一人ずつ。当然誰かがビールでびしょびしょになる。これが結構面白かった。このゲームはその後Beer Hunterと呼ばれるようになった。
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東京では遊びはどこかに行くことから始まる。Galesburgでは遊びはつくるものだった。遊びに行く場所がないので、なんか面白い遊びを考える。アメリカにはFraternityという男だけの共同生活クラブがある。メンバーになるためにはいろいろな慣習がある。たとえばHell week。メンバー以外と会話禁止、上級生が要求する「宝物」をかき集める(道のStopサインとか)、古新聞を通行人に売ってくる、あこがれの女学生にエロ写真にサインしてもらう、等々。実行できないと罰ゲームがある。大勢でピザを食べにいって、その支払いをオーナーと交渉せよと言われたこともある。この時は英語も通じず逃げた。翌日学長から連絡があって、日本人が食い逃げしたという通報があった。おまえしかいない。謝りにいって皿洗いをした。毎年のことなので店も要領を得ている。地元も学生と共存していたので、こういうことが許されたよき時代だった。ちなみに道のサインを引っこ抜いたときは警察が来た。ここでも上級生があと30分で元に戻すから少し待ってくれ、と交渉していた。ストリーキングも流行っていた。マイナス10度の中で女子寮まで走りにいく。ここでも上級生が連絡していて、女子学生がカメラを持って待っている。スマホのないよき時代だった。
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学期が始まる前にBrown Universityでサマースクールに行かせてもらうことになった。まずは羽田(成田がまだ存在していなかった)からNYへ、同期の女子学生と二人で乗り込んだ。出発前夜、その子のお母さんから電話があり「NYでは若いカップルをねらう連続殺人事件が起きているみたいで、うちの娘をよろしくお願いします。」「。。。知りませんでした。わかりました。」こっちだって初めてだし、時差で疲れてるし、英語は通じない。レストランでメニューを見ても、何が出てくるのか分からない。メニューの上から順番にオーダーした。初日は「May I have a cantaloupe?」メロンの半切りが出てきた。なるほどこれがCantaloupeか。翌日はBagelを知った。
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この物語は150年前にはじまる。時は幕末、4代前の祖父・益田右衛門介(長州藩家老・写真中央)がペリー提督の黒船来航時に浦賀奉行として任命される。のち禁門の変で自決の刑を言い渡される。
1932年米国ジョセフ・グルー大使が日本に赴任。大使夫人アリスは実はペリー提督の末裔であった。戦後グルー大使の意向・寄付を基に、日本人学生の留学を支援するグルー基金が発足。
1976年、この尊王攘夷のリーダーの末裔が、黒船船長の末裔が創立した基金によりアメリカ留学をすることになった。
1932年米国ジョセフ・グルー大使が日本に赴任。大使夫人アリスは実はペリー提督の末裔であった。戦後グルー大使の意向・寄付を基に、日本人学生の留学を支援するグルー基金が発足。
1976年、この尊王攘夷のリーダーの末裔が、黒船船長の末裔が創立した基金によりアメリカ留学をすることになった。