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2年のサッカーシーズンのプレイオフは昨年に続いてCarleton Collegeとの決勝戦。11月だというのに記録的暑さの日だった。確かその前々日にペーパーがあって徹夜に近い作業だった。2-2で延長に入り、15分x4の延長でも勝負がつかず、さらに5分x5の再延長の末負けた。勝っていれば全米トーナメントに招待されるはずだった。とにかく疲れ果てたのを覚えている。その晩つきあっていた子ともけんか別れしたこともかすかに記憶に残っている。
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シカゴの空港で迷いながら、Galesburg行きの飛行機(10人乗り)に乗った。パイロットで振り返りながら次の停車駅?を案内する。まるでバス。誰も手をあげなければ着陸しない。1時間程でKnoxのある町(人口3万)に到着。日系のHane先生が迎えに来てくれた。空っぽの寮に入ってシャワーを浴びる。強風でドアが閉まり部屋に入れない。タオル姿で建物をうろうろしたらSecurityを呼んでくれるという学生がいた。外ではサッカー部が練習していた。勉強が大変だからクラブ活動は無理だろうと思っていたので、ぼーと見ていた。夜になると一晩中貨物列車の音が聞こえる。シカゴからカリフォルニアを結ぶ鉄道が走っておりFreight train capitalと呼ばれるくらい貨物列車が走る。踏切はしまったまま。でも渋滞はおきない。それぐらい人は少ない。特に学校が始まるまでは。
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やっぱりサッカーがやりたい。練習中に監督にCan I play?と正にWalkonした。シューズも借りた。中西部のリーグで上位を争うチームだったなんて知らなかった。スタメンになれた。でも20分ぐらいで交代。なーんだ、と思ったらすぐにコーナーキックの時に、Goと言われた。アメリカでは交代自由のルールなんて知らない。ノーマークで同点シュートを決めた。延長で勝った。帰りのドライブは何本の缶ビールが空いた。新聞に記事はでるし、これで友達が10倍になった。(ちなみに新聞記事は日本の実家にも郵送されている、さすが寄付集めうまい)チームメートの名前も憶えてパスが来るようになった。リーグの選抜チームにも選ばれた。MVJだと言われた。Most Valuable Japanese、そりゃそうだ一人だけだから。サッカーが秋のスポーツで本当によかった。4年の時はキャプテンにもなった。
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東京では遊びはどこかに行くことから始まる。Galesburgでは遊びはつくるものだった。遊びに行く場所がないので、なんか面白い遊びを考える。アメリカにはFraternityという男だけの共同生活クラブがある。メンバーになるためにはいろいろな慣習がある。たとえばHell week。メンバー以外と会話禁止、上級生が要求する「宝物」をかき集める(道のStopサインとか)、古新聞を通行人に売ってくる、あこがれの女学生にエロ写真にサインしてもらう、等々。実行できないと罰ゲームがある。大勢でピザを食べにいって、その支払いをオーナーと交渉せよと言われたこともある。この時は英語も通じず逃げた。翌日学長から連絡があって、日本人が食い逃げしたという通報があった。おまえしかいない。謝りにいって皿洗いをした。毎年のことなので店も要領を得ている。地元も学生と共存していたので、こういうことが許されたよき時代だった。ちなみに道のサインを引っこ抜いたときは警察が来た。ここでも上級生があと30分で元に戻すから少し待ってくれ、と交渉していた。ストリーキングも流行っていた。マイナス10度の中で女子寮まで走りにいく。ここでも上級生が連絡していて、女子学生がカメラを持って待っている。スマホのないよき時代だった。
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なぜ留学したのか?とにかく家を離れたかったというのがある。両親は小学校の教員で一人っ子。教員の世界はものすごく狭いなあという印象があったので、一人っ子でもあり大学は地方に行こうと思っていた。横浜翠嵐高校のサッカー部でもキャプテンしていたりして、将来は海外でプレーしてみたいという気持ちはあった。だから英語も一生懸命だった。3年の夏の大会が終わって受験勉強だなあと思っていた時に、グルー基金という留学奨学金制度を聞いて応募したところ、運よく合格。12月に結果が出たので、受験勉強終了。タイプの学校に通った。合格が決まった時に、基金の事務局の方から、「足立君おめでとうございます。今年はKnox進学です。」「ありがとうございます。」「Knoxってどこにあるんですか?」という会話があったのを思い出す。手持ちの地図にも出ていない。でも歴史のある大学で全額の奨学金を頂ける。国内の地方の大学より安いし、サッカーも出来るだろうということで飛びついた。